自分のあり方について考える

寝るつもりだったが頭の中がごちゃごちゃしているので少しまとめてから寝ることにする。

妹に薦められてすえのぶけいこ作のライフという漫画を読んだ。これは十代の少女たちと周囲の大人たちが繰り広げる「いじめ」をテーマにした本なのだが、これまで見聞きしたどんなドラマや小説よりも大きな衝撃を受けた。そして、思わず昨日作った研究時間グラフのことも忘れて14冊一気に読んでしまった。

ライフ(14) (講談社コミックスフレンド B)

ライフ(14) (講談社コミックスフレンド B)

以前も書いたが登場人物の激しい感情に触れるとすぐにドキドキしてしまう。心が震えるような作品に出会えるのは非常にうれしいことだが、今回はそれだけではなく震えた入れ物からいくつかの思い出が形を変えて飛び出してきたので寝付けなくなってしまった次第である。

以下、いじめなんて物語だとずっと思っていた僕の「いい人」話。またの名を懺悔。

これまで生きてきた20年と少々、僕は「いじめ」とはまったく無縁だと思い続けてきた。いじめられたこともないし、いじめる側にも立ったこともないし、もちろんいじめを傍観していたこともない。愚かにも今の今まで本気でそう思い込んでいた。そして、飛び出てきたのは「いじめ」の記憶。驚くべきことに小学校、中学校、高校といつでも身近に「いじめ」の存在があったことを思い出した。

小学校のときはよく忘れ物をして先生に注意される子だった。「〜菌が移るから近づくな」なんて本当に子供じみたことを周りの友達とやっていた。中学校のときは二人いた。二人とも成績が芳しくなくおっとりしていた子だった。あるとき周りと一緒になって軽口を叩いたら殴られた。高校のときはやはり静かな子でネットに小説を上げている子だった。周りの連中の陰口や掲示板への陰湿ないたずらがあることを知りながら、その子と普通に話すだけで味方になった気でいた。

こんなことは「友達同士」ならよくあることだろうと「いじめ」を「いじめ」と認識していなかった。これはある意味で自分の心を守るための防御手段だったのかもしれない。「いじめ」であることを認識してしまえばそれを食い止めなければならない。そして、これは「いじめ」ではなく「じゃれあっている」のだと思い込んでいた。そして、じゃれあっているつもりで軽口を叩いた。相手がどう感じているかなんて考えたこともなかっただろう。

高校のときの例が示すように僕の学校生活の指標は常に、偏見を持たず誰とでも話せる「いい人」であることだった。なぜそう思うようになったのか詳しい経緯は覚えていないが、ドラマか何かをきっかけにいじめは誰も助ける人間がいないから起こるもので、自分が常に助けられる立ち位置にいればいいのだと考えたのかもしれない。そしてある一面では実際にそのようにしてきた。クラスのほとんどの連中が話しかけない子とも普通に会話していたが、これは特に努力したわけでもなく単にその人と会話をしない理由がなかったから。まったく空気を読めなかった結果にすぎないし、一歩道をたがえば同じような境遇になったのかもしれない。*1そして、当時はいろんな人と話ができる自分を「嫌いな人なんかいない」なんて誇らしげに思っていたが、今にして思えば強者には媚を売りつつ弱者とも一緒の輪を作りたかっただけだろう。

こんな風にしてとことん周りに迎合し、僕はいつでも周囲に波紋を広げない「いい人」であり続けようとした。実際は高校に入ってしばらくしたころからそんな自分に嫌気が差していたが、同じような生活を続けていたことに変わりはない。そして、「いじめ」を黙殺し続けてきた。

さて、これまで「いい人」であり続けようとした自分と「いじめ」について思い出しながら書いてみたが、「いい人」であることが「いじめ」とどう関係するのだろうか。結論から言えば多くの「いい人」が常に「いい人」であるときに何らかの問題が発生するのではないかと考える。

僕が思うに「いい人」と評されるような人は「自分の言いたいことを伝えられない人」だ。周りに合わせて自分を出さない結果が良くも悪くもなく「いい人」という曖昧な評価だろう。しかし、「いい人」というあり方を否定するわけではない。あらためて書くまでもないことだが、みんながみんな自分の主張を伝えるだけだったら全体は何も動かない。場面に応じて自分を出すべきところ、抑えるべきところをわきまえるからこそ上手に回っていく。すなわち一部の主張する人と大多数の「いい人」が良いバランスで存在するからこそ物事は進む。

ここで問題なのは自分が常に「いい人」の集合に入ってしまうことである。波風立てない「いい人」であり続けるのは正直言って楽だ。指示された事だけやっていればいいバイトが楽なのと同じで、主張する人間に迎合するだけならほとんど何のエネルギーも使わない。ただし、一度迎合してしまえばその波に抗うためのエネルギーは非常に大きなものになる。そして、結果として「これは間違っているかもしれない」と思っても何もできなくなる。

一見民主的だけど実は一部の人間の独裁という状況は古代ギリシャで行われた衆愚政治に似ている。そう考えると今も昔も、人数によらず人が集まる社会における人間の行動なんてたいして変わらないことに気づく。そして、どんな小さな社会にも潜んでいるこの危険性にはまってしまったときに発生するのが「いじめ」なのではないだろうか。

ここまで考えたことはなかったが、こんな「いい人」にはなりたくないと

昔から思っていた。

しかし、現実にはいかんともしがたく「いい人」であり続ける自分がいる。

そしてまたそれは別の大きな問題も抱えているがまた今度にする。

*1:実際は同じ境遇だったのかもしれないが自分自身への「いじめ」すら認識できないシアワセな野郎なのかもしれない・・・。