芋煮って辞書にないのね

研究室の芋煮会
川原に大学生集まりすぎw
しかもほとんど同じ学科の研究室ばっかw


「大学生って暇なのねー」
とか道行く人に思われてるのかもね。


来週は前の研究室の芋煮にお邪魔する予定。

極めるということ

「心で闘う120秒 剣道・日本最難関試験に挑む」 前半
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1131865


なんとかっこいい男たち。
八段とか高い段位を聞くと名前だけじゃねーの?
って思ってしまうけど、とんでもない。


並大抵の努力ではなしえない
武道を極めることへの美しさと儚さを感じた。


八段を取ったからといって(たぶん本人にとっては)極めたことにならないのだろうけど、何十年も鍛えに鍛え抜いてたどり着いた到達点なら極めたといっていいんじゃないかと僕は思う。まぁ、そうでもして認めないと人間には何かを極めることができないよねっていう考えからくる帰結なんだけど。


でも、あらためて考えてみると「極める」ってなんだろう?
国語辞書 - goo辞書

(1)限界に至らせる。果てまで行きつかせる。《極・窮》
「頂上を―・める」
(2)物事のこの上ないところまで達する。良いことにも悪いことにもいう。《極・窮》
「栄華を―・める」「経済は混乱を―・めている」
(3)(学問や技芸で)非常に深いところまで達する。《究・窮》
「蘊奥(うんのう)を―・める」「真理を―・める」「その道を―・めた人」

学問や技芸では「極める」は「非常に深い」ところまで達することらしい。たとえば山頂を極めるみたいに使うとき頂上という「限界」は客観的にわかることだけど、「非常に深い」ってのは自分でそう思うしかないよね。極めるっていうのは自分自身がこれ以上ないと思える状態に達すること…これって結局「悟る」ということかしら。


そう考えると「あの人は剣道を極めた」みたいな言い方ってすごい失礼なのかもしれない。本人が到達したいと思っている限界点を勝手に設定されたと感じてしまうかもしれない。


それでも人は他人のすごい部分を見せ付けられたときに「極めた」と言ってしまうのはしょうがないと思う。「極めた」と「とんでもなくすごい」が同義でも別に構わないが、個人的には他人に「極めてる」と感じることはあんまりない。感じないというか口に出さないようにしているというか…、やはり「極める」という言葉にある種の可能性とか神秘性を感じているからだろうか。




なんかよくわかんないエントリでしたorz