知識はGoogleで簡単に得られるモノではない

知識についての知識について (内田樹の研究室)

町山さんが指摘しているように、「知識がある」ということ、それ自体の価値がこれほど下落した時代はかつてない。それは「知識を得る」ことに「手間暇」がかからなくなったからである。

全体の要旨に異論はないのだけど,知識という言葉の使い方に違和感を覚えたので僕の考える知識について書いておこうと思う.辞書で調べると知識とは「あるものごとについて知っていること」で,知るとは「あるものごとに関する知識を有すること」とループしていて意味がわからない.

僕が初めに知識について考えたのは,知的財産権の授業で「知識」と「情報」の違いはという疑問を提示されたときで,このとき,知識とは情報を体系化したものであるということで一応納得した.別の側面から見れば,情報はコンピュータで表現できるが,知識はコンピュータで表現できないと言っても良いだろう.

現段階で人間の持つ知識はコンピュータで表現できないので,コンピュータプログラムである検索エンジンが知識をはき出すわけもなく,Googleから知識が簡単に得られると言われると抵抗を感じる.もちろん,これは僕の感じ方だし辞書的な意味ではGoogleで知識を得られると言っても差し支えはないのだが,そうすると「知識を体系づけたモノ」に対応する名前が無くてちょっと困る.

内田さんはこれを「知識についての知識」として,たくさんの書き物を読み続ける(知識を収集する)ことでしか身につけることができないと言っているが,「知識」という単語がゲシュタルト崩壊しそうなので情報・知識と分けた方がすっきりする.
↓こんな感じ

体系的に獲得した事実   知識     知識についての知識
                         |                 |
断片的な事実・内容     情報        知識
                       (僕)           (内田さん)

知識を得るということ

前ふりはここまでで内田さんとは別の意味での知識についての知識,メタ知識について考えてみよう.先ほど書いたとおり知識とは情報を体系化したものであると定義すると,情報をそれ自体が全体のどこに位置するか把握できるようになれば知識を獲得できたと言って良いだろう.つまり,知識とは情報を整理するための枠組みであって,後から好きなように自分で組み合わせたり加工したりできるような状態で頭の中に存在する.

芯のある粘土細工で考えると,知識とは針金で作った型のことで,後からぺたぺたくっつける粘土の小さなかたまり一つ一つが情報であると思えばわかりやすいかもしれない.

しかし,何の情報もないところで知識という枠組みだけが頭の中に存在するという状態はありえない.通常は情報を獲得しながら知識という枠組みを形成していくので,初めは粘土を付けると同時進行で骨組みを作っていくことになるはずだ.そして,これまでに獲得した知識の範疇にある情報が来ればすでに作った枠組みのどこに位置するか把握できるだろうし,もしそうでない情報が来たらそれは新たな枠組みを形成するための土台になるだろう.

ここで大事なのは他人の知識はそのまま自分の中にコピーすることはできないということ.どんなにすごい知識を持っている人がそれに関する情報を提供してくれたとしてもやはりそれは情報でしか無く,それを基にして自分の中に知識という枠組みを作っていくしかないのだ.そういう意味ではWebだろうが書籍だろうが知識獲得へのショートカットは存在しない.

一般的に情報獲得の手段として新鮮度ではWebが優れ,正確性や質では書籍という風に位置づけられているが,この前まったく背景知識を持っていない脳科学に関するレポート書いたときに知識獲得に関して思ったことがあるのでそれについても少しまとめる.

書籍の体系的な情報からの知識の獲得

これはまさに骨組みと粘土がセットになってついてきた簡易キットみたいなものだ.あらかじめどんな骨組みになっていてどこに粘土を付けていけばいいか教えてくれる.

至れり尽くせりだけど本当にこれですぐに知識が獲得できるだろうか?僕はそうは思わないし,これを読んでいる人の中にも勉強のためにいくつかの本を読んでみて自分には合わない本に出会ったこともあるだろう.

先ほどの知識をコピーできないという話だが,なぜコピーできないかと言えば,おそらくすでに自分が持っている知識と上手く整合しないからだ.これまでに作った粘土細工が棚に入っている状態で,新しい粘土細工を入れようとしたら他とぶつからないような形にする必要があるが,既製品では上手くはまらないので自分なりに整形する必要がある.

もともと棚の隙間にはまるようなちょうど良い形の知識でまとめられた本であれば整形も少なくすんなりと理解できるだろうが,自分とはまったく異なる背景を持つ著者が書いた本ではそうはいかないだろう.自分に合う本を探すというのはそういう意味だ.

常に知識獲得の最善手が読書というわけではない.

人から教えてもらう情報で知識の獲得

効率的に知識が獲得できるかどうかは当然その人に依るが,自分の背景知識を理解した上で教えてくれる場合はおそらく最善だろう.

ただし教えてもらう前に,どうやってその人を見つけるか,どうやって教えてもらうかという問題がある.

Webの断片的な情報からの知識の獲得

こちらは初めに書いたとおり粘土細工を一から自分で作っていくパターンだ.もちろん,著者の知識をまとめて文章にしている場合は書籍と同じなので,ここではGoogleで検索したときにぽっと出てきたような2ch情報とかブログの一言情報の連なりを想定している.

書籍と対比するのは,書籍が著者の作った体系でしか学んでいけないのに対してこちらは一つ一つの情報から自分に組み込みやすい体系を作っていけると感じたからだ.もちろん,何も知らない自分よりもその分野に関して数百歩も先に行っている著者が作った体系の方が優れていると言えばそうだが,場合によってはその著者が持つような立派な体系を必要としないこともあるだろう.

プログラムを書くときにオブジェクト指向だ,テスト駆動開発だという大仰な手法をいつでも使うわけではないのと似ている.多少いびつだろうとその時の目的に応じて必要最低限の枠組みを自分の中に作るという意味ではWebからの知識獲得も悪くはないと思う.

少なくとも単位をもらうために大学のレポートを書く程度には.

追記:なぜ知識を構築する必要があるか

大事なことを書き忘れてた.
なぜ情報だけではダメで知識にしないといけないか."「こんなやつの言うことは信頼できない」という判断を下す"ためってのもあるかもしれないが,僕にとっては情報よりも知識の方が頭に定着しやすいということの方が大事だ.

針金に付けた粘土がはがれて行くように検索で見つけた情報というのはいとも簡単にこぼれ落ちて行ってしまう.それを後でまた役に立つかもしれないから残しておこうとして人はブックマークするわけだが,意識下でもその程度でしか扱われていない情報というのはやはり無意識下でも低い扱いですぐに見えなくなってしまう.

一方で知識という枠組みはそう簡単には無くならない.体系化されるということはそれぞれの情報が強固な意味ネットワークを形成するということなので,Webで言えば知識というサイト全体のページランクが高い状態で保存される.なので細かい情報は消えて行ってしまってもリンクがつながっているという状態だけは残っていて,後からまた情報を取得した際に情報の位置づけが簡単にできる.

とりあえず何の本に何が書かれていたかだけ覚えておけばいいというスタンスに近いかな.