神の目を持った自分は想像できません

ヒトの認識のお話…かもしれません。昨日の夜寝るときにあるきっかけがもとで頭にぽんぽんと浮かんできたことなどを書いていきます。あるきっかけというのは、音楽を流しながら寝ていてらイライラして眠れなかったという非常につまらないものですけど。*1


はじめに流していた曲は友人から借りていたSuaraのアルバム。とても透き通った声で落ち着ける曲です。これをかなり小さめの音量で流していました。不思議なことに布団の中で聞いていると、頭に余計な負担がかかっている気分になってくるのです。そして、間奏の部分や次の曲の前奏になるとふっと負担が軽くなって落ち着いて眠れるようになるけれども、歌が入ってくるとまた負担が大きくなるということをしばらく繰り返していました。


これは頭の中で聞こえてくる音を勝手に音声認識しようと頑張っているのだろうか?と思い始めると余計につらくなってくるという悪循環。はたして、流す曲を適当なサウンドトラックに変えたらだいぶ楽になりました。歌が入っていなくても音程やリズムなど認識する余地はいろいろあるのでしょうが、それはきっとそのときの僕には歌声を認識するのに比べて心地よい負担だったのでしょう。


音量が小さければ余計に声は聞き取りづらくなるから、さらに頭に負担がかかるというのはありえるかもしれません。カラオケで歌い疲れて少し寝るときがありますが、そのときあの大音量はあまり負担にはなっていない気がします。


まぁ、夜中に大音量で実験はできませんが試してみたいかも。


結局全部とめて寝ようとしたら、思い浮かんできたのが高校の部活の先生の話。

コンクールが近くなると聞こえてくるすべての音のピッチが気になってしょうがない

という感じの話だったと思います。はぁ・・・そんなことあるもんなのか。と絶対音感とは縁遠い自分には理解できない話ではありましたが、入ってくる情報を意図せずして認識してしまうという点で今回の状況と少し似ている気がしました。まぁ、耳の精度が段違いなんでしょうが。


そして、こういうことを考えているとヒトの情報処理能力ってたいしたことがないのではないかと思ってしまいます。単一の情報源でこの程度なのだから、複数の処理すべき情報源があるときはさらに悪いのは当然の結果なのでしょう。携帯電話で話しているだけで運転中の反応速度が極めて遅くなってしまうのなんていい例です。


どうして一つの物事にしか意識を集中させられないのかはわかりませんが、細かく時間を区切ってマルチタスク処理…なんてうまいことはできないんでしょうね。というか、それこそ注意力散漫の原因にしかならないのか。


さて、ようやく神の目の話に入るんですけど神の目とはなんでしょう。
なんかそれっぽい書き方があったので引用。

グローバルな視座において「同時多元的」「局面の多様的な視点」「瞬間膨大」という切り口で、あたかも地球を掌上で把握できるかのごとく、地球の真の出来事を認識できる可能性が現実のものになっているということです。

http://www.gainendesign.com/kei/krepo/k90421.html


たぶんはじめて神の目という単語を聞いたのはエネミーオブアメリカ(ENEMY OF THE STATE)。この映画では何でも見通せる衛星を揶揄した言葉でしたが、この概念にひどく疑問を持ったような気がします。


というか、このタイトルにあるようにどういう状況なのか想像できませんでした。世界中のありとあらゆる情報(それがたとえ視覚情報だけだとしても)が自分の中に取り込めるとしたら…うーんやっぱりムリですね。すいません、想像力も貧弱なんです。


そういう状況でヒトができるのは結局なにか一つ(たとえば好きな人とか)に焦点を合わせて他のすべてを切り捨てることしかないんじゃないでしょうか。今の時代、情報の氾濫とよく言われますが、神の目なんて持ってしまったらそれこそ情報の大海原に突き落とされて溺れ死んでしまうのではないかと思います。


やはり神の目で取得した情報は神の脳でしか処理できないのか。
なんか昔考えたことから全然進歩してない気がしますorz

*1:そういえば、奈良県の騒音おばさんの件で夜は60デシベル以上の音を出すとダメっていう条例ができるかもしれないようですね