「思われる」って使ってもいいじゃん

文章は接続詞で決まる (光文社新書)
ここ経由でちょっと気になって生協で立ち読みしてみたところ面白そうだったので買ってみましたが、これは買って正解。というかぜひお勧めします。
執筆のためのhowto本とも言えるかもしれませんが、むしろリンク先でも言及しているとおり接続詞のリファレンスと言ってもいいくらい多くの接続詞を扱っています。とはいっても、ただただ列挙するのではなく、

接続詞とは、独立した先行文脈の内容を受けなおし、後続文脈の展開の方向性を示す表現である。

と初めに定義したとおり、その接続詞を用いることで後続文脈にどのような影響を与えるのか、読み手にどのような印象を与えるのかを極めてわかりやすく説明しています。

立ち読みしたときに面白いと思ったのが論文やレポートにおける「思われる」系の文末接続詞*1で、一般的に否定されることが多いだろうこの表現の持つ意味を納得させてくれました。
曰く

「と思う」「と考える」「と言う」であれば、書き手の積極的な判断を表し、先行文脈と大して関連付けなくても表せる形式でしょう。(中略)「私は」を補うことができるからです。しかし、「と思われる」は(中略)「私は〜と思われる」とは言えません。主体の積極的な判断ではなく、むしろ自然にそうなるという帰結を表しているからです。

目から鱗とはまさにこのことで、ことここに至って「思われる」を使うべきでない理由が思いつきません。以前ネット上の論文執筆に関する記事で「思われる」といった受け身の表現や主観的な判断は良くないというのを見かけて以来使わないようにしてきたのですが、論文内でこれまでに得られた知見(実験データや解析)だけでは問題に対する十分な解法・結論を示せないという場合はよくあります。そういう場合、そこまでの議論から得られる推論を提示して次へつなげるわけですが、そういったときに「私の主観的な判断」ではなく、これまでの流れから「自然に得られる」結論であるという意味で、「思われる」という表現を使うのは極めてまっとうであると「思われます」。
例えば「論文 思われる」でググるとこんなQ&Aが出てきます。
「~と思われる」と「~と考えられる」論文ではどう使い分けますか? - Yahoo!知恵袋

(こういうところで、「書き方だと思われます」と使いたいでしょうが、きっぱりと断定します)

上記はベストアンサーの一部引用なのですが、こういう風にとらえてしまうと断定すべき根拠がない文にも関わらず、「思われる」って書いちゃいけないと盲信してとにかく断定してしまう可能性があり、論理的な文章としては穴ができてしまう恐れがあります。


さて、話を戻して本書では接続詞に関する一般的な使われ方、そして文章構造における立ち位置を逐一説明してくれるため、「どうしてその接続詞がその場面で使われるのか・使うのか」をすんなり理解することができます。
なるほどと思ったのが下の例で、接続詞の前と後ろの長さによる組み合わせ方はこのようになる場合が多いことを示しています。

短い文 → あるいは → 短い文
短い文 → たとえば → 長い文
長い文 → 要するに → 短い文
長い文 → 一方   → 長い文

実際、「たとえば」は抽象的な概念から具体的な例示に続くため、文章は概念と比べて長くなりがちだし、「要するに」は具象から抽象へとたたみかける接続詞なので短い文で収まると予想できます。


ここで、予想できると書いたのですが、接続詞の重要な役割の一つに文章の流れを読者に教えてくれることであると著者も言っています。先の例の通り次に例示が来るのか、並列関係にある事実の説明が来るのか、論理的に逆接の話が来るのか、接続詞で予告することによって読んでいる側がすんなり受け入れることができます。

だから、そのまま受け入れられる順接の接続詞は普通に使うとつまらない文章になってしまうというのは納得できる話ですし、文学作品や小説でいう「余韻」ってやつが接続詞の用法からして来るべき内容があるのにあえて書かないことから生まれる場合があるというのも納得です。


……とだらだら興味深かったことを書いていくと本の内容全部になりそうなのでここで中断。でも最後に一つだけ。本書は接続詞を説明する本ですが、当然そこには説明対象である「接続詞」と説明するために用いる「接続詞」が登場します。おそらく僕のような素人が書いたら大混乱間違い無しなのですが、著者は極めて適切に説明に用いるための「接続詞」を選択しているように感じました。さすがに接続詞のセンス抜群です。


最近は本を読むときに自分にとっての新たな発見となる箇所には付箋を付けるようにしているのですが、見事に付箋だらけになりました。

*1:という著者の分類